波乱万丈なシンガポールでの生活
えっ!!? そこですぐ決めちゃったんですか!!? 勇気のある行動ですね。潔さがすごく羨ましいです!
シンガポールに渡ってからはどのような生活をされていたのですか?
シンガポールへ移住して、そこで食べていくには仕事をしなければいけないので、まずは仕事を探しました。日本人駐在員のアシスタントとかしかなくて…。シンガポールまできて最も苦手な分野かぁ…面白くないなぁ…と思いました。
もっと面白い仕事はないのかと探していた時、アメリカのIT企業の記事を見つけました。
ジャパニーズDTPスペシャリストを募集している巨大印刷会社のシンガポール支店でした。
もともと印刷会社で働いていたし、なにより工場の香りが大好きでした。ピンときたんです。早速そこに行って面接をしていただき無事に採用されました。そこは印刷会社の一部門を担っていて、ソフトウェアの量産が専門のITサプライチェーンでした。、同じ印刷会社なのに、内部の業務プロセスが日本のときと大きく異なっていてエラく驚いたことを覚えています。当時は日本向けのMicrosoft Officeなんかをすごい規模で量産していましたね。
勤め始めたときがちょうどバブル絶好調だったのですごく安定していていましたが、そのぶん刺激がなかったんです。
出発のとき
そんなとき、偶然にも日本の友達でテレビ関係の仕事をしている方から「シンガポールで日本語のラジオ局を作るんだけど手伝ってくれない?」という誘いが来ました。
それがきっかけとなり仕事の合間をぬってラジオの裏方の仕事も始めました。原稿を書いたり時間をチェックしたり企画を出したり。そういう仕事をするにあたっていろいろな人との出会いも増えました。
しばらくすると昼間の仕事よりもラジオ局の仕事が忙しくなっていました。そんなときにバブルがはじけました。社内でも第1次リストラが行われ、突然昨日までいた人が3分の1くらいいなくなっていました。私は第3次くらいのタイミングでリストラされました。リストラって急に言われるんですよ。
普通に出勤して16時くらいに呼ばれて今日で終わりねって。本当に急ですよね。
それはびっくりしましたよね。
いま自分の身に何が起きているのかを理解するのにちょっと時間がかかりそうです(汗)
そうですね。直属の上司がいなくなった時点で、薄々そろそろ私かな~とは思っていました。ちょうどリストラされるときにタイ旅行を計画していて5日間の予定だったんですが、2週間くらいに伸ばそうと思い立ち (笑)。
人事面談中ももう頭の中は旅行のことばっかり。だいぶ楽天的ですよね。
メリハリのある生き方ですね!そのあとの仕事はどうされたんですか?
タイ旅行から戻ってきて、夜のラジオ局の仕事仲間に「会社を作ろう!」と言われました。自分が起業?ちょっと面白いかも、という軽いノリで会社を設立しました。そこでは主に執筆や翻訳、あと企業PRのお手伝いなんかもやりました。気づいたらシンガポール航空の機内誌(日本語)の副編集長になってました。
他にも日本からくるテレビ局のコーディネーションなどもしていました。バラエティーからドキュメンタリーまで。たいへんでしたがおもしろかったです。
特に、事前リサーチが大好きでしたね。
シンガポールで
今でも衝撃が忘れられない
その後、冒頭でもお話した通り911同時多発テロが起こりました。私は夕方テレビでその様子を見ていて、ご飯の手がピタッと止まったのを覚えています。でもその時はまだ他人事でした。
テレビをつけると911についてのニュース報道ばかりという状況の中、インドネシアのリゾート地、バリ島の繁華街で欧米人が集まるバーが爆破されました。そこのお客さんが何十人も亡くなり、こんな近くでもテロが起こっているんだと実感しすごく怖くなりました。
当時、私の家の隣に見た目がちゃらちゃらしたアメリカ人が住んでいました。見た目はちゃらちゃらしているのですが、ナショナル・ジオグラフィックやTIME誌などでも仕事をしているフォトジャーナリスト(笑)。家には撮影機材がゴロゴロと置いてあるような職業人。その人がテロのニュースがあった次の日から突如家にいなくなったんです。
何日かして彼が帰ってきたとき、どこに行っていたのかを尋ねてみると「バリのテロの取材で現地に行ってた」と!こんなに身近な人も世界規模の事件にかかわっている、これは私の中でとても大きな出来事でした。
東北での支援活動
美しい島が何もなくなっていた
ほかにもシンガポールにいて影響を受けたことはありましたか?
2004年12月26日にインド洋で地震があり大津波がおこりました。私はタイのプーケットという美しい島が好きでしょっちゅう遊びに行っていたのですが、テレビで現地の映像をみてすごく驚きました。こんなになってしまったのかと…。
翌年の2月「津波復興イベントをプーケットでやるから取材に来てくれ」とタイの観光局から声がかかりました。行ってみるとたった2ヶ月しか経っていないのに信じられないくらい復旧していていました。素人ながらこんなに急にきれいになるはずがないと感じましたが、プーケットは観光業で栄えているところなので、このイベントを通して復興した今のプーケットを知ってもらい観光客を呼び集めてほしい、と。
戻って記事を書きました。ですが、私はずっと腑に落ちなかった…。
タイの観光局の方に頼みました。プーケットから1時間くらいのところにあるピピ島に行かせてほしいと。その島は何年か前に訪れたことのある美しい島でした。ピピ島はまだ復旧していないということでしたが、だからこそ行きたいのだと説得しました。
そこは私が訪れたときとは全く違う景色になっていました。何もなくなっていていたんです。ほんとうにびっくりしました。
そしてこの頃、日本へ帰国するきっかけがあったんだとか…
この後フランスに行く仕事がありました。仕事といってもフリーランスのようなものでしたので、2005年11月ごろからしばらくの間フランスを拠点に仕事をすることにしました。今的にいうノマドワーカー?
滞在中、シンガポール航空の機内誌の企画で南フランスの特集を組もうとなり、南仏の主要箇所をめぐるツアーに行きました。それはとっても楽しかったのですが、こんなことをしてていいのか…と思い始めたんです。災害にあって困っている人がいるなかで、私はバカンスの代名詞のような美しい南仏を旅していて…。観光地を巡るのもいいけれど、わたしは別のことをしたい。
フランスには途中から母親が合流していました。母娘の生活も長くなるとキツイもので…気分転換しよう、行ったことのないどこか、パリから簡単に行けるところに行こう!ということになり、モロッコに旅行に出かけました。フランスからだと、まるで沖縄に行くような手軽な感覚で行けるんですよ。それもびっくり。アフリカの大地はとっても広くて。このとき初めて、こんなに世界は広いんだと思いました。そして母親といつまでシンガポールにいるのかという話になり…。
私のやりたいことができるのはどこだろう、なんだろうと調べるうち、ここ『JEN』の求人にたどり着いたんです。
東北での支援活動
そうなんです。求人を見つけたときにはすでに心はシンガポールになかったので、すぐ応募しました。シンガポールでやっていた仕事は共同経営者だった同僚に全部渡して日本に帰国しました。